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思考 の記事
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| Free Tibet | |
| 2008/05/08(Thu) 23:58 | |
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重い日記を書くつもりもないし、そんな元気もないけれど。
今日、母校で起きた騒動には、さすがにOGとして無関心ではいられなかった。 胡錦濤国家主席の早稲田大学大隈講堂での講演。それに伴う、入校規制、学生と警察隊の衝突。 相次ぐ中国の不祥事と、チベット問題。 中でも、チベット人への虐待の現状を調べれば、恐らく良識のある人間なら愕然とすることだろう。ナチスドイツのユダヤ虐殺よりも、性質が悪く、悪質だと思う。それは、「残酷なことで有名」な中国ならではともいえるのかもしれない。興味のあるひとは「中国 処刑」とでも入れて検索してみるといいだろう。見なければ良かったと思える情報に数多くありつけるはずだ。 その現状を知る人たちが訴える『Free Tibet』。虐殺された、虐待された人たちの惨状を知れば、中国側の意見がどれほど滑稽に見えることか。 今回、胡錦濤国家主席の早稲田訪問で、多くの学生がFree Tibetを訴え立ち上がった。こういう運動につきものの、極左極右の連中にかき回されながらも、真剣にFree Tibetを訴え続けた後輩たちを誇りに思う。大学側の行動には眉をひそめる点が多々あるが、それでも、自分の信念をまっすぐに訴えられる後輩たちが残っていることが、何よりも嬉しかった。 私が出来ることは、あまりにも少なく、小さい。それでも、今日の彼らをみて、何かしたい。そう思えた。 | |
| 『頑張れ』と言う言葉 | |
| 2007/06/11(Mon) 15:38 | |
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とある掲示板を見ていたら、『頑張れって悪い言葉?』みたいなトピックスを見つけました。トピックス名が既におかしいとか思いましたが、とりあえず、中を。
いろいろな意見、価値観を持つ人がいるんだな、と再認識ですね。「何で頑張れっていうのがいけないのか」という人と「頑張れって言う言葉は危険」という人、半々くらいでしょうか。 何人かの人が、 「頑張れって言われて怒るのは甘えているから」 「頑張れって言う言葉を素直に受け入れられないのは最低の人間」 等々書いていました。 そんな人間に、頑張れなんて言ってほしくないですね。 自分の善意は100%相手に伝わるものだと思い込んでいるのでしょうか?自分が善意で言っていれば、相手がネガティブに捕らえるのは自分には全く責任・関係がないと思っているのでしょうか?相手の状態を鑑みずに発言した自分は棚に上げて? 甚だしい思い上がりだし、とても自己中心的な考え方だと思いました。 そういう人に限って、自分の善意の押し売りをすることが多々。胸糞悪いことこの上ない。相手を思い遣るつもりのない善意なんて、偽善でしかない。 そんな人もいるんだと、憂鬱になってしまいました。 『頑張れ』は励ましの言葉。だけど、必ずしも相手にプラスになるとは限らない。相手を見て、その言葉が適切なときか判断するのは、発言するほうの人間。一度出してしまった言葉は消し去ることは出来ない。その言葉によって出来た傷をなかったことには、出来ない。だからこそ、お互いに思い遣り、気遣いあって発言しなければならないと思うのです。 行き詰っているときの『頑張れ』ほど、酷な言葉はないと思っています。 | |
| 涙が出るほどに | |
| 2007/03/15(Thu) 00:25 | |
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誰かのことを離れ難いと思ったのは、初めてかもしれない。家族以外で、別れを辛く思ったのは、初めてかもしれない。
いつの間に、こんなに弱くなってしまったんだろう。それとも、人間が丸くなってきた証拠なのだろうか。 昔は他人なんて信じることが出来なかった。他人は他人で、自分と関係のないものだと、思っていた。その場限りの付き合いで、それ以上のものだと思ったことは、余りなかった。 今でも、根本的なところは変わっていないと思う。他人を信じることも、心から気を許すことも、できない。他人と、割り切っている部分は相変わらず強い。 それでも、別れを惜しむことが出来るようになった、それは、何かが変わった証なんだろう。そういう相手に出会えたことを、幸せだと思える。 別れを思うと、涙がとめどなく流れるけれど、せめて、あなたの前ではずっと笑顔でいるよ。別れの、その瞬間まで、ずっと。
BGM:最近頭の中でエンドレスに流れ続けている曲。
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M (PrincessPrincess) | |
| トラウマだらけ…_no||| | |
| 2007/02/02(Fri) 11:41 | |
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最近、再びぷち鬱気味。まだ、やりたいって言えることがあるから重症ではないと思うけど。なんで私こんななんだろう…。昨日の夜、トラウマがらみで軽く地雷踏まれてしまった。軽く鬱。もう、トラウマありすぎてダメだね〜。自分でも呆れてしまう…。
自分を否定されるのって、誰しも苦手な、嫌なことではあるんだろうけど。「いらない。」「どっかいって。」「期待してない。」「予定外の子ども」そう言われて育った傷はなかなか埋まらない。言われたのは家族から。姉であったり、父であったり、母であったり。 それが、真意ではなかったことは、よく知っている。本気で言ってたわけではない。 でも、それは、今だからわかったこと。何も知らない子どものことは、その言葉に慄き、傷つき、自分を責めた。だから、必要とされようと、必死で『いい子』でいようとした。自分を多少押し殺してでも、まわりの人に合わせようと頑張った。それしか出来なかったから。 そんなトラウマ、相変わらず克服できてない自分。家族を誰より何より愛してるけど、拭い去れない不信。憎しみはもうないけれど、残された傷は癒えない。塞がりかけたかさぶたも、今はまだ、いとも容易く剥がれてしまう。 しばらく、休養しなきゃ。心が尖ってる。こんなとき、近くにいる人を必要以上に傷つけてしまう自分。そんな自分も嫌い。 | |
| トラウマ | |
| 2007/01/29(Mon) 11:33 | |
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かわいいと、言われ慣れてない。だから、かわいいって言われると、ついつい嬉しくて、言ってくれた人と一緒にいてしまう。
そう、昨日夜遅く帰宅した姉が語った。姉も、私と同じ、トラウマを持っている。 姉も私も、子どもの頃、「かわいい」と言われたことがない。むしろ、「かわいくない」といわれて育ってきた。姉は母に。私は姉に。身体に染み付くほどに。 いじめも受けていた。相手はいつも、男の子。 公園に遊びに行って、砂をかけられた。嘲笑いながら、追いかけられた。姉はガムを髪につけられた。長い髪を、根元から切らなくてはならなかった。そして、「ブス」という言葉の暴力。学校で男の子からつけられたあだ名は、特撮の敵の恐竜の名前。不細工な私にはぴったりだと、笑われた。 そんな、小学校が大っキライで、中学は私立を選んだ。両親も、地元の中学が荒れてることを懸念して、私立を選ばせてくれた。姉は次兄の通う中学に、私は一人違う中学に。姉や次兄と違う中学を選んだ理由はあるけれど、それは別の話。 中学に入り、いじめがなくなったわけではなかった。それでも、表立っていじめられることはなくなり、学年が上がるにつれ、やがてそれもなくなった。そして、いじめがなくなるにつれ、変わっていく彼らの態度。多分、女として見られ始めたのだろう。だが、その変貌と視線が、逆に気持ち悪かった。 小学校の頃、近所の男の子に、悪戯されたことがあった。その当時は、それが何なのか、何を意味するのか、全く知らなかった。わからないまま、触られ、ただただ、気持ち悪かったことだけ、覚えている。 それのせいもあるのかもしれない。男の人に触れられることが、吐き気を伴うくらい、気持ち悪く感じることがある。人ごみにもまれることも、ダメな時期があった。今ではだいぶ改善されたが、昔は電車に乗ることすら躊躇するくらい、苦手だった。『男性』と言う生き物が。今でも、肌が直接触れるのは、かなり苦手だ。 姉と、トラウマについて語ることはあまりない。ただ、お互いトラウマが何かを知っている。だからだろうか。 「愛してるぜっ!」 冗談交じりに、よく姉と叫びあっている。 もっともっと昔、トラウマになる前に、お互いに気付いて、語り合えたら、きっとお互い楽になれたかもしれないのにね。もう、かなり今更だけど。今、姉と過ごす時間。自分と向き合う時間でもある。 トラウマ。克服するために、いろんな人を傷つけている。克服したいために、女である自分を誇示しようとしている。 克服できたら、私は何か変われているだろうか。 克服しなければ、人を愛せないだろうか。 愛って、何ですか? | |
| ひどい人間 | |
| 2006/12/26(Tue) 12:44 | |
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私はひどい人間だ。悪魔だと思う人もいるかもしれない。そう思われてもしかないくらい、私は他人の思いを踏みにじることしか、できない。
それでも、私は悪魔であることを、やめられない。 自分の存在を、他人が認めてくれたと思えるまで。 自分の存在を、自分で認められられるようになるまで。 それは、一種の復讐なのかもしれない。過去、私を認めてくれなかった人々への。過去、私を卑しめた人々への。それが、未だ、私のなかに傷として残っている以上、それを忘れることはできない。かつて、私が浴びせられた罵声以上の想い、好意を受け取らなければ、克服出来ない。そんな気がする。 単なる、自己満足。それは、わかっている。自分でも呆れるくらい、わかっている。だけど、満足できなければ、私は次へ進めない。他人を愛することも、他人の愛を信じることも、出来ない。 傷つきたくなかったら、近づかないで。それが、今の私に出来る精一杯。貴方を傷つけたいわけではない。傷つく貴方を見たいわけでもない。だけど、今、私は、近くにいる貴方を傷つけることしか出来ない。 貴方の愛に甘えることは出来ても、貴方の愛に応えることは出来ない。 …。ごめんなさい。 | |
| 一期一会 | |
| 2006/11/23(Thu) 02:03 | |
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いつも、私の心の隅にある言葉。とても、素敵な言葉だと思う。
誰かと交わる。その一瞬一瞬が、とてもすばらしいと思う。得がたいと思う。その一人ひとりが、私に何かしらの影響を少なからず及ぼしている。そのことを思うと、人と交わること、それ自体が、人間の奇跡のような感じだ。 誰かと向き合ったこと。好きな人であれ、嫌いになった人であれ、それは私にとってとても重要なもの。 好きな人は、もちろんいうまでもなく。いろいろな影響を受けている。 嫌いになった人のことは、思い出すだけでムカついてきたりはするけど(苦笑)。でも、その、向かい合っていた時間は、確かに私の中に存在して、その時間が、私に何かしらの影響をもたらしている。反面教師というものであれ、それは、今の私を形作る重要な要素のひとつになっている。 今までに会った、数え切れない人。とても親しい人から、道で少し会釈を交わすだけの人から、電車でたまたま乗り合わせた人。すべての人から、影響を受けているって考えると、ちょっとすごい。でも実際、たまたま横に座った人の挙動だけで、私は不愉快にもなるし愉快にもなれる。ちょっと幸せな気分を得ることもある。名前も知らない、ただ、その場に居合わせただけの人に、いろいろな感情を持たされる。人が、生きている証拠だと思う。そう考えると、なんか、奇跡のような。 過去を消すことはできない。でも、消す必要もないんだと思う。その、事実は、今の自分にとって、とても大事な過程だったのだから。出会う人、一人ひとりが、『私』を作る糧になる。 『人』と『人』が繋がりあうことで『人間』になる。『人』と交わることをできない人は、『人間』ではなく、孤独な『人』である。 昔、何かで聞いたことだ。『人』と交わることで人は『人間』になる。一期一会。出会う人、すべてに、感謝を。 | |
| 理想の人 | |
| 2006/11/22(Wed) 00:36 | |
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憧れる女性がいる。憧れが理想になる。ああなりたいと、思った。近づければと、思う。
柔らかい物腰。 優しい笑顔。 凛とした姿勢。 毅然とした態度。 美しい言葉。 思慮深い眼差し。 そして、自分らしくあること。 年老いても尚、美しいと思う。年を追うごとに、美しくなるような。 美智子皇后陛下 緒方貞子さん そして、天国の祖母 40年後、50年後、私はあのように生きれるだろうか。憧れと、不安と。少しでも近づけるように、生きていきたい。 | |
| 服装 | |
| 2006/11/17(Fri) 23:37 | |
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未だに熱が下がらず、体のだるさと頭痛に悩んでおります。丸々2日間寝てたのに、改善されないって…_no||| さすがに困りモノ。明日にはPHSを機種変更しに行きたいのに、行けるのだろうか…。
人との付き合いが、疲れてしまうのは、風邪のせいなのだろうか…。そんなわけはない、と自分でわかっているのだけれど。いつも以上に、狭量になっている自分。鬱が抜けてないんだろう。 一緒にいて、恥ずかしい姿の人と、歩く気になれない。相手が変わる気ないのなら、一緒に出歩くのを止めるしかないのだろうか。 ファッションって、とても大事なことだと、私は思っている。もちろん、ファッション(見た目)がすべてだというつもりはない。だけど、見た目で第一印象が決まるのも事実。どれだけ性格がよかろうと、みすぼらしかったりだらしなかったり、みっともない格好をしている人と、付き合おうとは思わない。ネットだけの社会ならいくらでもOKだけど。 私は、他人の視線が気になるから、着るものにも気を遣う。歩き方、立ち方、ジェスチャー、その他いろいろなものに対して気を遣う。(気を許した人には何でもありだったりするけど。大汗)だからこそ、逆に他人のファッションにも注意が行く。他人の姿を参考にして、自分なりにアレンジしようとしたりする。 他人に不快な思いをさせない。それが、ファッションの第一であって、それすら気をつけられない人がいる。 ファッションに興味がないって、他人の視線、評価なんて気にしない、とイコールに思えてしまう。他人からの評価を気にすれば、自ずと自分の姿にも注意すると思うのだけれど。違うのかなぁ…。 自分自身を磨くとき、服装もそのプロセスのひとつだと思う。他人から馬鹿にされない自分を創る。 馬鹿にされて悔しいんだったら、馬鹿にされないように変わればいい。それすらもできずに、馬鹿にされることだけを忌み嫌う。自分が変わらなければ、何も変わらない。そのことに気付いていない人といるのは、正直疲れる。 | |
| 何がつらい? | |
| 2006/11/02(Thu) 01:52 | |
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いろいろ思い出してプチ鬱復活中なのですが、考えたらよくないと思いつつ、考えてしまう。それも、悲しい性なのかもしれない。
なんか、いろいろ考えて、自分がショックを受けてることに気付いた。何にショックを受けているんだろう。ぐちゃぐちゃになりながら、いろいろ思った。ふと、気付いた。何よりも、『裏切られた』ことが、ショックなんだな、と。 そんなことで、いちいちプチ鬱を復活させる自分も情けない。でも、よくよく思い出すと、私は裏切られること(=他人の思いを踏みにじること)が昔から嫌いだったようだ。どうでもいい人はどうでもいいんだけど、一度懐に入れた人間から受ける裏切りには過剰に反応する傾向がある。もともと、あまり他人を自分のテリトリーに入れない人間だから、それが強いのかも、と自分で思いつつ。 落ち着いたら、話をしようと思っていたのは、私の甘えなのかもしれない。けれど、身内と認めた人間には、わかって欲しかった、というのもある。わがままだと、自分でも思うけれど。大事な人なら、半月でも一月でも、それ以上でも、時が来るのを待ってお互いについて語り合う。それが、今までの私のスタンス。私が相手にとってホントに大事な人間なら、待てたのではないかと、期待して悲しくなる。1日も待てないほど、軽い存在だったのだろうか、と。 でも、それは飽くまで私の価値観。相手の価値観なんてわからない。分かり合うこともなかった。それが、私の限界なのかもしれない。 | |